ケンシです!
今日は
「なぜ学ぶか」を問う社会科教育学と問わない?理科教育学
について書きたいと思います。
先日、理科教育学を深く学ばれている方のブログで
教科系では、教科内容を学ぶべきことであることは大前提で、疑われていません。
あったら教えてください
というニュアンスのことが書かれていました。
これを読んで、教科系(教科教育学)の中でも理科教育学は、なぜ学ぶか、問わないんだ!
と驚きました。
社会科教育学の場合は、
CINIIで
森分孝治
と検索すれば、なぜ学ぶかの
学術論文が出てきます。
また、著者では
『社会科授業構成の理論と方法』が有名で、
なぜ社会科を学ぶか
から
なぜ江戸時代の政治を学ぶか
まで述べられています。
加えて、渡部竜也先生の訳書、著書
『教師のゲートキーピング』
『歴史で私たちは何ができるか』
でも、なぜ学ぶのか、エイムトークの重要性が述べられています。
このように社会科教育学では、なぜ学ぶのか、は徹底的に問われてきました。
なぜ社会科教育学は、なぜ学ぶのか、を問うのでしょうか。
理由が大きく2つあると思います。
1 社会科導入の歴史
社会科は1947年、「民主主義の花形」として導入されました。
しかし、これは国家の必要ではなく、
民主主義を注入したいGHQの必要
で導入されました。
導入したGHQがいなくなれば、なぜ学ぶのか、必要なのか、考えるのは必然です。
こうした背景から、GHQに導入された家庭科について、家庭科教育学でもなぜ学ぶのか、の議論は盛んです。
2 ニーズの衝突 特に歴史
とはいっても国家は歴史を必要としました。
「日本人」というアイデンティティを形成するためです。
日本人を作りたい国家
民主主義を守りたい市民
こうしたニーズの衝突があり、
なぜ学ぶのか
の議論が盛んになったと考えられます。
こうした議論の末、高校にあった
社会科
は解体され、科目ごとに分かれました。
(国家、学者のニーズが反映された形ですね。)
(『社会科解体論批判』に詳しく書かれています。)https://amzn.to/3aHx9dT
このような背景で、社会科教育学は
なぜ学ぶか
の議論が盛んになりましたが、理科教育学はなぜ、なぜ学ぶか
を問わないのでしょうか。
社会科教育学の歴史から考えると、
ニーズの衝突
が比較的少なかったから
ではないでしょうか。
国家も学者も市民も「科学の繁栄」にうなずいたのではないでしょうか。
社会科、特に歴史のように
日本人をつくりたい国家
後継者を生みたい歴史学者
民主主義を守りたい市民
のような分裂は弱かったのかと推察します。
(繁栄か環境保護かでカリキュラムが揺れ動いてきた、と伺ったことはありますが。)
理科教育学に詳しい人がいたら教えてください。
ちなみに、数学教育では
『数学教育の哲学 THE PHILOSOPHY OF MATHEMATICS EDUCATION 』
に、
数学そのものが大切な立場から、民主主義のための数学
などが議論されていてとても刺激的でした。
国語については、現代文は読み書きのリテラシーは大事だなと感じます。
古文、漢文も
『歴史で私たちは何ができるか』
の議論が応用できそうです。
個人的には、英語が気になります。
国際化の流れで日本では、70年代から英語教育が盛んになりました。
しかし、国際化!
で推すのも限界があるように感じます。
ちょっとした観光案内は、Google翻訳で。
旅先で軽く話すには、ポケトークで。
英語が本格的に必要なのは、長期的にそこそこのレベルの会話が必要な人です。
そうでない人に、
なぜ英語は必要なの?
という問いにどう答えるのでしょうか。
今後も教科教育学について、深めていきたいです。