モチベーション!(ゴー☆ジャス風)
ケンシです!
今日は
ポストモダン論で考える『学び合い』で個人の得を語る意味
について書きたいと思います。
しばしば『学び合い』は1人も見捨てないことの意義を語ります。
そしてそれは、個人にとって徳ではなく、得だと語ります。
なぜ個人にとって得と語るのか。
『ライトノベル表現論 会話・創造・遊びのディスコースの考察』 泉子Kメイナード 明治書院 2012
を読んでいたら、答えになりうる論を見つけました。
東浩紀さんの論を引用しながら、
ポストモダンにおいては、「個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる」ようになり、別の感性が支配的になったとしている。14
と述べられています。
いい大学に入り、いい会社に入る
という価値観が、テクノロジーの進歩やグローバル化、スタートアップの奨励などにより弱まってきました。
そして、YouTubeなどによって多様な発信、生き方も可能になってきました。
こうした多様化するポストモダンの時代において、
日本人としてがんばろう!!!
〇年〇組一丸となって!!!
という大きな物語は抑圧に捉えられるのかもしれません。
チームとしてという語りをケンシはよくするのですが、、、
それを受け付けてないだろうなぁという子がいるのも事実です。
だからこそ、個人として得という話が必要になるのかもしれません。
それでは刺さらない子もいるから、あの手この手でモチベーションが上がるよう2割に語り続けていきたいです。