ケンシ@『学び合い』と真正の学びブログ

本の紹介、高等学院の立ち上げ、育児について書いています。以前は、『学び合い』、真正の学び、社会科教育などをメインに書いていました。

1人も見捨てない「社会」の実現のために討論授業は必要か


こんにちは!
ロダンの「考える人」状態になりそうな
ケンシです!

今日は、

1人も見捨てない「社会」の実現のために討論授業は必要か

について考えたいと思います。


『学び合い』実践者の多くは、


必要ない


と答えると思います。
討論は参加できない子を見捨てる授業だとお考えになるのではないでしょうか。


でも、ケンシは必要だと考えていました。


1人も見捨てない教育を目指すのなら、必要ないと思いますが、1人も見捨てない「社会」の実現のためには必要と考えます。


例えば、生徒が大人になって子供を生んだとしましょう。
住んでいる地域にはあまり子どもたちの遊び場がありません。
唯一の遊び場であった公園を、高齢化のために老人ホームの誘致を市が始めたとしたら。
その生徒は、市の政策に反対したいはずです。
そのために、問題を探究し、諸団体と対話し、声を上げなければいけません。
でも、その生徒にはそういう力がないとしましょう。


ここで、『学び合い』実践者の発想でいけば、


力がある人に、力を借りればいい。


になると思います。
しかし、数年間の『学び合い』だけで、

将来、仕事で忙しい中、問題を探究し、諸団体と対話し、声を上げてくれる誰か

とのつながりを保障できるでしょうか。
できなかったら、公園の存続を望む生徒の幸せは誰が守れるのでしょうか。


と考え、昨年のケンシは単元のまとめで討論授業を全員で行ってきました。
問題を探究し、諸団体と対話し、声を上げる力をつけるためです。


しかし、今年度、この点について見直してみたのですが、


元々力がある人もいるし、運良く力のある人とつながれる人もいるだろうな。


と考えました。


やっぱり『学び合い』だけで生徒の幸せを守れるかな。とも考えました。
例えば、


限られた土地を公園にすべきか。老人ホームにすべきか。


という課題などを出したいけばそれでいいかなぁ。
そもそも、『学び合い』をやっていれば、将来、声を上げてくれそうな人は誰かわかるし、
「1人も見捨てない」という願いを共有できていれば、きっと仕事で忙しくても力を貸してくれるはず。
とも考えました。


しかし、その一方で『学び合い』(ここでは、1人も見捨てないという願いはもちろんですが、課題を出す。自由に取り組む。できたらネームプレートを動かす、という基礎の形を指して)ではやはり、


問題を探究し、諸団体と対話し、声を上げる力


を保障しきれないかもなぁと思います。


クラスみんなの前で自分の意見を言う度胸、慣れをクラス、学校の何人かにきっちり提供しなければ、生徒の誰かが不幸せになってしまうのではという不安も拭えません。


折衷案としては、単元の最後に、
希望者制の討論、討論を希望しない人は単元の復習又は予習に取り組む時間にするのも手かなと考えます。
「このクラスのみんなが一生の幸せを得るためには、問題を探究し、諸団体と対話し、声を上げる力を持つ誰かとつながる必要があると思います。こうした力をもつ人とつながれなかったら、困る人がでてきます。だから、この力を誰かに身につけて欲しいのです。そして、その力をみんなで共有して欲しいのです。」
という語りをして?


すごく悩みます。
みなさんはどうお考えでしょうか?

しかも最近知ったんですが、ロダンの「考える人」あれ本当は考えてなくて「見る人」じゃないの

という説もでてきているそうです、、、。

みなさんはどうお考えでしょうか?

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