批判!モンケハン!三行半!
ケンシです!
今日は「『学び合い』批判を考える 社会科教育学の立場から」について書きたいと思います。
今では、『学び合い』は実践の核になっていますが、
『学び合い』は大学で全く学びませんでした。それどころか、『学び合い』をやっているということがわかったら、4年間ゼミでご指導いただいた社会科教育学の先生から次のように言われることが目に見えています。
共感理解、態度形成じゃないか。最も民主主義社会の形成に寄与する主権者の育成から遠いわ。やらなきゃいけないのは、1人も見捨てない教育・社会の実現を主張する集団が、なぜそれを主張するのか。その社会は具体的にどんな社会か。良さと課題は何か。代替案はないのか。をきちっと分析することじゃ。俺から言わせれば、1人も見捨てない、なんていうメッセージを鵜呑みにしてそのまま行動するやつがうじゃうじゃしてる社会なんて危険じゃ。すぐに権力者に洗脳されるわ。
と。
ゼミの先生だけでなくて、社会科教育学を学んだ方ならこのような感想が多いと考えます。社会科教育学の学説では、
社会認識を通して市民的資質を育成する
民主主義社会に寄与する主権者を育成する
社会化ではなく、対抗社会化。そのための批判的思考。
共感理解ではなく、科学的探究
(農家の人はどんな工夫をして頑張ってるんだろう?で人の思いや願いを読み取らせる)ではなく、
(なぜ農家の人は工夫をしなければいけないのだろう?で社会の構造を考えさせる)
とよく語られてることが、その背景にあります。
では、こうした批判に対してどのように考えていけばいいでしょうか。
『学び合い』に熟達された方は、
民主主義とは折り合い
民主主義社会では個人の得と国家の得が一致する
と述べており、多様な人と折り合いをつける『学び合い』は、民主主義社会の形成者を育てる社会科教育学とも矛盾しないように感じます。
さらに、ケンシとしては、2つの感想を抱きました。
1 1人も見捨てない は疑いようのない概念
社会科教育学では、多くの場合、民主主義社会を目指す、主権者を育てる、という前提を疑いませんし、
(議論はあります)
人を殺してしまえ、と教えることもありません。
こうしたレベルで、1人も見捨てない、は疑いようのない概念なのではないでしょうか。
「人格の完成」を目指す教育で、「1人くらい見捨ててしまえ!」
という教員は存在できないように思います。
2 批判それ自体を課題にする
冒頭の文章
1人も見捨てない教育・社会の実現を主張する集団が、なぜそれを主張するのか。その社会は具体的にどんな社会か。良さと課題は何か。代替案はないのか。
をそのまま『学び合い』の課題にしてみてもいいのかなと感じました。
『学び合い』を始めた頃は、
『学び合い』と社会科教育学の研究をどちらも生かすことは出来ない
と思っていましたが、案外できるし、『学び合い』でも批判的思考を伸ばせると今では感じます。
批判を批判的思考を伸ばすのに生かす。
たとえ、三行半を突きつけられることになろうとも、批判と向き合うことは大切だなぁとしみじみ思いました。
今後も、批判から成長できる人間になれるよう頑張りたいと思います。