ケンシ@『学び合い』と真正の学びブログ

本の紹介、高等学院の立ち上げ、育児について書いています。以前は、『学び合い』、真正の学び、社会科教育などをメインに書いていました。

「なぜ『学び合い』は宗教と言われることがあるのか」


剣道やるなら三刀流!
ケンシです!


今日は、「なぜ『学び合い』は宗教と言われることがあるのか」について書きたいと思います。


宗教といえば、ケンシは「ゾロ教」ありじゃない?
(ゾロアスター教ではない。)


と感じてます。


人気漫画ONEPIECEのキャラクター「ロロノア・ゾロ」のセリフで、


「俺は神には祈らねぇ。信じるのは己と仲間だけだ」


と言い放っています。
あぁ、いいセリフだなぁ。最後まで己と仲間を信じていたいなぁ。
と感じました。


つくづく、ケンシにとっての教典はアヴェスターではなく、ONEPIECEだなとしみじみしていますが、そもそも




宗教ってなんですか?





このテーマを考える時に思い出すのが、大学の先生が言っていた言葉です。


「崖にかかった綱がある。この綱を、これでいいのか、これでいいのか、と疑いながら考えながら進むのが哲学。これでいいんだ、と信じ突き進むのが宗教。」


という言葉です。
宗教の定義は、辞書的にも学術的にも色々あると思いますが、あえてこの先生の言葉の定義で考えてみたいと思います。


しばしば、


『学び合い』は宗教だ


という言葉を目にしますが、なぜでしょうか。
先程の定義で考えると、




2つのことを疑っていないように見えるから




ではないかと考えました。


1つめは、「1人も見捨てない」という願いです。
『学び合い』実践者の方で、この願いを疑っている人はいないと思います。
(「1人も見捨てない」という言葉。これをそのまま語ることは除いて)
「人格の完成」のために教育に携わる以上、この願いを疑うのは難しいのではないかと感じます。


1人くらい見捨てた方がいい、とハッキリ言う先生。
女王の教室以外で見たことありません。



2つめは、『学び合い』実践そのものです。
多くの方が言うように、本を読んでそのまま実践するとある程度の結果が出るのが『学び合い』です。
だから、ある程度本を読んで結果を出した方は、『学び合い』実践を疑わないのではないかと思います。


『学び合い』こそ生徒の生涯に貢献するんだ


と『学び合い』をバリバリ頑張っていくんだなぁ、と感じます。
そこに、


『学び合い』は必要だけど、
『学び合い』だけでいいのか?


という問いを持っている人を、ケンシは数名しか存じ上げません。



こうした状況が、一部の人から見ると


『学び合い』実践者は、「盲目で自分のやっていることを疑わない」ように見えて


宗教


のように感じているのではないでしょうか。



もし、『学び合い』実践者が、




『学び合い』の考え方は、大切にするけど、
こういう教育理論あるよね、こういうのもあるよね



という発信をしたら、


『学び合い』は宗教


という言葉も減るのかな


という仮説を考えました。








しかし、この仮説は外れるといいなぁ
とも思います。




盲目=宗教






という発想は、宗教を信仰している方に大変失礼であると思うからです。


ケンシは、宗教を信仰している友達何人かとふか〜い話をしたことがあります。
そこには、親のすすめで仕方なく信仰している

という声ももちろんありましたが、



祈りによって精神を統一させることは自分を高めることだ





たしかに、腹は減るし面倒かもしれないけど、食事をしないことで食べられない人の気持ちを知るのは、人として大切なことだろう



という言葉に出会ってきました。
彼ら・彼女らは決して盲目に信仰しているのではなく、意味づけ、批判的検討を行った上で、宗教について語っているように思いました。


もしかしたら、


宗教やん


というセリフを口にする方は、
ご自分が無宗教で、
宗教を信仰する方とある程度の関わり


がない方なのかも知れません。



今後とも、「己と仲間」を信じて頑張っていきたいと思います。
よろしくお願いします。

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