先輩がこう言ってきた。
クラッシー使えていいくらっしー?
勤務校ではClassiという学習サイトを使い始めたからだ。
そこで、こう返した。
一人ひとりがギャグを自由に言える。そうこれがデモクラシー
先輩の発言で凍りついていた職員室がさらに凍りつく。
このギャグを言ってきた先輩は、あたたかくて優しくて仕事ができてすごくいい先輩だ。
そして、親父ギャグが大好物。
出会った2年前からこの先輩はギャグを壊れかけのRadioのごとく繰りだしてくる。
発想がすごいですね!
いよおおおおおおっ!
天才ギャグマシーーーン!!
など合いの手をいれたり太鼓持ちをしたり、色々試行錯誤したが、どうやらギャグをギャグで返されるのがもっとも大好物らしい。
そこで、上述のようなギャグを返したのだが、ふと思う。
あれ、これ俺も寒いやつと思われんじゃね?
別に先輩が寒いやつとは一言も言ってないし思ってもいないが、思わず「俺も」と思ってしまった自分には優しくしたい。
そして、ふとアドラー心理学。特に、『嫌われる勇気』の議論を連想した。
『嫌われる勇気』の内容は、ざっくりまとめると、
人は変われる。
トラウマは存在しない。
人は原因ではなく、目的で生きている。
その目的の大半は「嫌われたくない」という承認欲求である。
「嫌われたくない」という承認欲求を捨てろ。嫌われる勇気を持て。そうすれば自由になれる。
承認欲求の代わりに、他者貢献という星を持て。他人にどう思われようが、自分が貢献したと信じられるならそれでいい。
その先に、共同体感覚。
他者貢献に生き、共同体感覚を持ち、ダンスするように、過去でも未来でもない、今を生きろ。
といった内容であると解釈している。
今回、
これ俺も寒いやつと思われんじゃね?
と思ったのは承認欲求の典型だ。
寒いと思われようが、嫌われようが、先輩に対して「他者貢献」できたならそれでいいのではないか。
これでいいんだ。
自由に、嫌われる勇気をもって生きたい。
(でも、あたたかな空気の職場で仕事をしたいという他の先輩方への貢献はできませんでした。)