課題!MAKIDAI!ハッシャダイ!
ケンシです!
今日は
教員vs生徒の討論における功罪
について書きたいと思います。
古家正暢先生とその生徒たちから学んで「水俣病は仕方なかったのか」
という討論を毎年行っています。
ケンシは比較的討論授業を行うことが多いのですが、今回、はじめて
全員同じ意見
になってしまいました。
「水俣病は仕方なかったのか」の討論は、
毎年、仕方ないが3割(偏差値高めな理系の生徒が集まりがち)、仕方なくないが7割くらいになります。
しかし、今年は全員
仕方なくない
を選んだのです。
導入や問いかけを大きくは変えていないのに、結果が違う。毎年、教員の仕事は楽しいですね。改めて生徒ありきで成り立つ仕事だと再認識しました。
討論をやるか迷ったのですが、昔、先輩がおすすめしてくださった
教員vs生徒
の構図で討論をすることにしました。
生徒に深めて欲しい資料や視点について問いかけやすいという利点がありました。
しかし、教員の発言が多くなってしまい、生徒の発言機会を保障できない、1人も見捨てないを貫徹できないという大きな課題を発見。
加えて、教員の意見に生徒がなびいてしまったり、そもそも自分の目の前の生徒の問いから始めたりできていないという課題も発見。
違う問いや活動を考えて見たいと思います。