ここに〜太子が〜いないのが淋しいのじゃなくて〜
ここに〜太子が〜いないと思う事が淋しい〜
ウォウウォウ〜!
こんにちは、ケンシです。
今日は「聖徳太子どうこう」について書きたいと思います。
や政治家S井氏の聖徳太子はどうあがいても教えるべきだー!!!
という議論を活用して、
なぜ聖徳太子は存在したかどうか議論されているのに教科書に載っているんだろう
という探究授業をしたことがありますが、今回はまた違った「聖徳太子どうこう」についてです。
高3の時、「はぁ、社会科なんて暗記科目だし勉強する意味ねぇ」
とやさぐれてしまい、受験勉強をやめました。
そこで気晴らしにある大学のオープンキャンパスに行きました。
そこで出会ったのが、渡部竜也先生です。
渡部先生はそこで、
「聖徳太子どうこうはどうでもいいんじゃ。聖徳太子を通して何を教えられるか。どんな力をつけられるか。それを考えていくのが社会科教育学じゃ。」
という話をされていました。
やさぐれていたケンシの心にバファリンばりに染みました。これだ、この学問こそがケンシの探究したかったことに応えてくれる。
強くそう思い、テンションがぶち上がったケンシは渡部先生に噛み付きました。
「でも先生、聖徳太子どうこうを紙芝居とかで生徒の記憶に残るように教えたら、生徒の記憶に残るから意味あるんじゃないですか?」
すると渡部先生は、「聖徳太子どうこうを生徒が記憶して何になるん? 紙芝居?どうでもいいねぇ!!!」
と、それこそバイキングの小峠ばりに叫ばれてました。
「高校生だよ?オープンキャンパスだよ?いうたらこっちお客さんじゃないの?受容だの傾聴だの大事じゃないの?」
と思うケンシもいましたが、確かにな、と思いました。
あとあとわかったことですが、これは『教師のゲートキーピング』という本でも
まとめられているように、
「なんのために教えるのか」
という教師の信念形成、エイムトークに関わる問題だったのです。
「なんのために教えるのか」
「それが大事」です。