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ケンシです!
今日は
なぜ悲惨な歴史を知る必要があるのか〜『夜と霧』〜
について書きたいと思います。
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』 ヴィクトール・E・フランクル 霜山徳爾とくじ みすず書房 1956
を読みました。
こんなに読むのがしんどい本は人生ではじめてです。
糞尿が顔に跳ねかかったりした時、顔をしかめたりあるいは拭き取ろうと試みたりするとそれは確実にその労働者のお上品ぶりに腹を立てるカポーの棒の一撃で酬いられるのであった100 101
(カポー=支配者)
これでも軽い表現を引用しています。
とんでもなくむごい、読んでいて吐き気がする表現ばかりでした。
それでも読まねばならない。と思って読みました。
なぜわざわざしんどい思いをしてまで、悲惨な歴史を知る必要があるのか。訳者はこう答えます。
自己反省を持つ人にあっては「知ることは超えることである」と言うことを信じたい 2
というのです。
この悲惨な歴史を超えるために、知らなければいけないのです。
気になるのは、
フランクルはなぜ生き残れたのか。
ということです。
訳者の言葉を借りれば、
人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰 207
であり、フランクルの言葉を借りれば、
精神的人間的に崩壊していった人間のみが収容所の世界の影響に陥ってしまう171人間の善意を人はあらゆるグループの人間において発見し得る 195
ということです。
希望を持ち、精神を保ち続けたということですね。
しかし、最近Twitterで
「死んでいった人は希望を持っていなかったというのか」「希望を持って生きれば生きれるというのか、強制収容所だぞ」
という意見を見ました。
希望を持ち、精神を保ち続けた
のが生き残りの理由ではないならなんでしょうか。
この本から読み取れる他の説として、
「君たちに忠告する。それはヒゲを剃ると言う事だ。できれば毎日だ。何でも良い。俺はガラス片でやっている。あるいはヒゲを剃ってくれるものに最後のパンの一片をやれ。そうすれば君たちは若く見え、頬はたとえ引っ掻き回したようでも血色が良くなる98
という戦略があげられます。
血色が悪いものから殺されてしまったからです。
機転を効かせる、戦略を練ることの必要性です。
機転説、戦略説
とでも呼びましょうか。
他には、
ユーモアもまた自己維持のための闘いにおける心の武器 132一日に一つ愉快な話をみつけることをお互いの義務にしようではないか 132
ユーモアへの意志、すなわち事物を何らかの形で機智のある視点で見ようとすること 133
といった表現から読み取れるユーモア説です。
いったいなぜ、フランクルはアウシュビッツ強制収容所から生き延びれたのか。
これら以外の説があったら教えてください。
知ることは、超えることだから。